ぺぺ・ロメロ日本公式サイト

クラシックギターの巨匠ペペ・ロメロの日本公式サイトです

E-mail:info@pepetas.com

インタビュー2001
古いものになりましたが、以前より公開されているインタビューです。

私、ペペ田代がスペイン/コルドバにて収録したもので、現代ギター誌に掲載されたものの原版~完全版です。雑誌掲載版は、私に何の相談も無く、言葉遣い等を変えられていました。
ここで見られるものが、私の意に沿う雰囲気のものです。

楽しい昔話が多く、大変に楽しめます。



2001年7月13日(金)翌日にブローウェル指揮、コルドバ管弦楽団との共演を控えた我がパパ、ペペ・ロメロ。

私の今回のスペイン滞在中、幸運にもマドリッド、ヴァレンシア、コルドバと、ゆっくり御一緒する事が出来ました。以前より「今度会ったら、ゆっくりインタビューさせてください」とお願いしてあったので、快く応じて頂いたのをはじめ、リラックスしてゆっくりインタビュー出来るようにと御配慮頂いたり。


当初はスペイン在住の友人に通訳に入ってもらい、スペイン語にてと申し入れたのですが、「いつもお前とお喋りしてるようにフランクにやろう」ということで英語でのインタビューとなりました。したがって日本語に翻訳する段階でも、親しい間柄での口調らしくなるよう配慮いたしました。

兄上セリンも同席しての楽しい昔話など、珍しいお話しもたっぷりと伺うことが出来、お楽しみ頂ける内容になったと思います。場所はスペイン・コルドバ旧市街、ポトロ広場のとあるレストラン。夜11時頃からグラスを片手に、柔らかい夜風を受けながらのインタビューとなりました・・・・・・



ぺぺ田代以下T: ロメロスのアメリカでの最初期の想い出を話してください。

ペペ・ロメロ以下R: アメリカでの最初のコンサートは、1958年6月13日サンタバーバラでの父セレドニオのソロ・コンサートだったんだ。それは素晴らしいコンサートで、今でも昨日のことのようによく覚えているよ。

そのコンサートはある紳士によって企画されたもので、また彼は我々ロメロス一家がアメリカへ渡ることについてのスポンサーでもあったんだ。その紳士の名はファリントン・ストデイツと言って、私達一家が彼に会ったのはマラガだったよ。
実際にファリントンと初めて出会ったのは兄のセリンで、1953〜4年頃だったと思う。その頃、セリンはある友人から「ギター好きのアメリカ人がいるから、会ってみたらどう?」って勧められていたんだ。
そこで、セリンとその友人はファリントンの家を訪ね、そのときファリントンはセリンの演奏を大変気に入ったんだ。そこでセリンは「もし私の演奏がお気に召したのなら、私の師匠でもある、父セレドニオに是非会ってみて下さい。」と申し出た。

そして、私達一家はファリントンと彼の妻エブリンに出会い、幸運にも大変良い友人同士になれたという訳。その後、ファリントン夫妻はイギリスへ行き、私達一家はセビーリャへ引っ越した。

が、しばらくして彼等夫妻は、セビーリャに私達を訪ねてきて、そして私達一家は1957年にアメリカへ移住することになったんだ。

アメリカへ渡って最初、私達一家はサンタバーバラに約一年ほど住んだ。ファリントンが企画した’58年のサンタバーバラでの父のリサイタルはこの時のものだよ。このコンサートは大変な成功を収め、そしてこの時、ファリントンは、自分が"マーティン・マリン・ラジオ"の役員であることを私達に告白したんだ。

彼は仕事の都合でロスアンゼルスへ行くことになり、私達もL.A.でギター教室を始めることにしたんだ。だから、私達がアメリカで最初に稼いだお金は、ギターを教えることによって得たものだったんだよ。
その頃−1959年、父はサンタバーバラでのコンサートを企画していた。それは、父・セリン・私のトリオのコンサートだったんだけど。父がこのコンサートの開催を決心した日のことは今も忘れられない。



弟のアンヘルは、そのコンサートが自分を除いたトリオのコンサートだと知って、「どうしても僕も一緒に弾きたい!」と言って駄々をこねたんだ。父は最初、「お前はまだ駄目だよ」と取り合わなかった。−アンヘルはまだ若すぎると父は考えたんだね−すると、アンヘルは「僕も兄さん達と同じで大丈夫なのに」と泣き出してしまったんだ。アンヘルはどうしても一緒に弾きたかったんだね。

そこで、しかたなく父はアンヘルにこういう条件を出した。「コンサートの当日、開演前に私の前で演奏して見せなさい。もしその演奏が良いものだったら、アンコールで一曲弾かせてあげよう。でも、私が駄目だと判断したら、発表したプログラム通り、『セレドニオと二人の息子達"セリンとホセ"』だよ」と。お前も知ってるとおり、スペインでは一般的に"ホセ"の愛称はペペだから、私のことだね。
その日のコンサートは大成功。条件適って、父の許しが出たんでアンヘルもアンコールでヴァイスの『バレー』を弾くことになったんだ。

さて、アンコールでヴァイスの『バレー』を弾き終わったアンヘルは、今度はスカルラッティのソナタを弾き始めたんだ。そして、なんと、アンヘルは自分が準備した曲全てを弾き終わるまでステージから降りることを拒絶し、セリンや私の分の時間まで弾いてしまった!

演奏を終えると、アンヘルは観客に向かってうやうやしくこう言ったんだ・・・「我が家族を代表しまして心より御礼申し上げます」(爆笑)
これが「ロメロ四重奏団」誕生の瞬間で、父は次のコンサートからは常に四人で演奏することを決意したんだ。



 1960年1月20日、私達は自分達で企画したコンサートをロサンゼルスで開いたんだ。このコンサートが正式な形での四重奏団としての最初のコンサートで、この夜、我々は二曲の四重奏曲を演奏したんだ。それは父が四重奏用に編曲した作品だったんだけど、四重奏の世界をクリエイトするという意味でも、まさに四重奏団の誕生と言えるだろう。
その頃、セリンは合衆国陸軍から徴兵された。幸運にもセリンの兵役は短い期間で済んだんだけど、その訳をこれから話そう‥‥。なぜって、ロメロスの成功への幸運はこのダメ兵士に負ったんだから。

 セリンが新兵教育のプログラムを受けていた時のこと、そのプログラムには手榴弾を投げる訓練があったんだ。普通、手榴弾はピンを抜き、遠く前方へ投げるものだが、何故かセリンは真上に投げてしまったんだ(大笑)!
即座に指揮官は警報のサイレンを鳴らし、そこにいる全員が身を伏せた。ともかく、奇跡が起きて、誰も怪我をせずに済んだんだけどね(笑)。

セリン以下C: 誰も怪我しないなんてことはわかっていたのさ!みんなをちょっと怖がらせてやろうと思っただけなんだから!(爆笑)

R:翌日、セリンはその新兵教育のプログラムから外されて(笑)、今度はある教会の神父のサポート役に回された。教会での神父の務めを助けるためにね。しかしセリンは、この仕事にもあまり熱心に取り組まなかった。  ただ、幸運だったことは、その神父はたくさんのレコード・コレクションを持つ熱心なクラシック音楽愛好家で、熱狂的なモーツァルト・ファンだったのさ。したがって、セリンが米国陸軍で行った任務は、その神父の膨大なレコード・コレクションに索引を付け、整理・体系化することだったんだ。
 のちにこのレコード・ライブラリィはセリンが仕えたサリヴァン神父自身によってラヨーラ大学へ寄贈された。まぁ、それによってセリンは軍隊内でクラシック・ギタリスト、クラシック音楽家であることが知られたわけだ。

その頃、父は陸軍にいるセリンへある一本のギターを贈った。それは父が初めて注文し、そして受け取ったコルドバのミゲル・ロドリゲスのギターだった。そのギターはセリンが最も愛するコレクションの一つになったんだけど、そのギターは最初、軍隊へ送られたんだよ。
だからセリンは、陸軍に於いてギターを受け取ったこと、またその頃には陸軍内に於いて、クラシック音楽家として認められたことをよく憶えているはずさ。

又、その軍隊にはもう一人のクラシック音楽愛好家がいた。彼はユーゴスラビアからの移民の息子で、航空産業のある技術を発達させる仕事をしていた。後に大金持ちになったその青年の名前は、ジェームス・ルーカスといい、当時ルーカス青年はある夢を持っていた。それは、コンサート・ミュージシャンのマネージャーになることだった。そして、その頃ルーカスはなんとなくセリンに出会った。軍隊でね。

私達一家がルーカスに初めて会ったのは、私達がセリンを訪ねて軍へ会いに行った日のこと。他の兵士やその家族達を乗せたバスに乗って、私達はロスの郊外まで行った。激しい雨の日でね。目的地にバスが到着し、皆は雨の中へと降り立ったのさ。すると、タクシーへ乗り込もうとしていたある若い兵士が我々を見つけ「どうぞこのタクシーをお使い下さい」と言ってくれた。
ギターを持っていた私達を気遣って、彼が乗り込もうとしていたタクシーを譲ってくれたのさ。この親切な若い兵士がジェームス・ルーカスだったんだ。

その日、私はセリンとのデュオで数曲演奏した。他の兵士やその家族の為にね。まあ、ともかく兵役を通じ、セリンとルーカスは良い友人同士となったのさ。

ある日、セリンはルーカスを我が家に連れてきた。その頃、ルーカスは、自身の「コンサートマネージャーになりたい」という夢は、セリンによって叶えられると思っていたんだ。ソリストとしてのセリン・ロメロによってね。ルーカスはセリンの演奏を大変気に入っていたから。

しかしセリンは、四重奏団としてのロメロスをルーカスに紹介したかったんだ。だから、セリンは我が家にルーカスを連れてきた。我が家でルーカスと初めて話し合ったあの日を、昨日のことのように思い出すよ。



我々のロスでのコンサートは大々的な成功を収め、レビューも全て好意的なものだった。そこでルーカスは、ロメロ四重奏団を本格的に売り出す決意をし、ニューヨークへ行き、各地の名門コンサートホールにてのコンサートをプロモートする作業に入った。その時のコンサートツアーはサンフランシスコを始め、シカゴのオーケストラホール、ボストン・ジョーダンホール、ニューヨーク・タウンホールと、大規模なものだった。幸運にもこのコンサートツアーは大成功し、あらゆるプレスに載ったレビューで絶賛されたんだ。

ルーカスのプロモーターとしての手腕は全く見事なもので、我々は金銭的にも成功することが出来た。1961年、我々のこの4つのコンサートのプロモーションの為にルーカスは、なんと10万ドル以上つぎ込んだんだよ! そのおかげもあって、その3ヶ月程後にはカーネギーホールやリンカーンセンターでもコンサートをすることができたのさ。本当に、素晴らしい大成功だね。

ニューヨークでの最初のコンサートの後、数社のレコード会社が接触してきた。マーキュリー、RCA、ビクターなどがね。各社共それぞれニーズが違ったんだ。例えば、RCAは四重奏のみの録音を希望していた。
しかし、我々は各自のソロや二重奏なども積極的に録音したかったんだ。だから、私達の希望した条件に最も合致したマーキュリー・レコードと契約したんだ。

次の年の1962年は23本のコンサートを行った。その当時、我々は自動車で移動しながらコンサートツアーをしていたんだ。それは大変素晴らしい経験だったし、素敵な想い出が一杯あるよ。

T:誰が運転していたんですか?

R: ペペ・ロメロ:セリンだよ。セリンはいつでも我が家のキャプテンなんだ。
その頃のエピソードを話そう。我々はツアーのための車が必要だった。そこで、我らがキャプテン、セリンがシボレーのピックアップ・トラックを買ってきた。まあ、適切な良い選択に思えたんだ。もちろん、家族全員そう思ったよ。

運転席のベンチシートには父、母のアンヘリータ、そして運転手のセリン。後部荷台に私と弟のアンヘル、そして楽器と荷物って寸法さ。
もう分かるだろ?問題はね、当時の我々一家はアメリカの気候に詳しくなかったってことなのさ!(笑)なにせ、南スペインから南カリフォルニアと、温暖な土地しか知らなかったんだからね!今思えば無謀な話だけど、その車でコネチカット、シカゴ、ネブラスカなんかも行ったんだよ!(大笑)もうあまりの寒さに「今我々は、もしかしたらシベリアにいるんじゃないか?」なんて思ったよ!(爆笑)ヒーターのある運転席に座る父、母、セリンはまあ良しとして、後部荷台の私とアンヘルは骨の髄までが縮み上がったものさ!ピックアップトラックだよ!ひどい話さ!(笑)

 ある夜のこと。夜通し車を走らせなければならぬ日程でね、夜中の2時か3時頃だったろうか、ガソリンを入れるためにセリンはガソリンスタンドへ寄ったんだ。いつものように後部荷台で縮み上がっていたアンヘルと私は、冷え切った体を温める絶好のチャンスと思い、セリンが車を止めた途端、そのガソリンスタンドの建物内へと駆け込んだ。給油を終えたセリンは、荷台に私とアンヘルがいるかどうかを確認せずに出発してしまったんだ!(笑)しばらくすると父がそのことに気づき「おい!ペペとアンヘルがいないぞ!!」と叫んだわけさ。セリン達は、私とアンヘルはフリーウエイを走行中、荷台から転げ落ちてしまったと思い込んで、来た道を戻り探し回ったんだって(笑)。



こんな風にアメリカ最初期のツアーでは楽しい想い出が沢山あるよ。家族皆の心に、素敵な想い出として。まったく、今となっては愛しい想い出さ。
そしてもちろん、コンサートもだけど、共に音楽を作り上げることも、本当に素晴らしい作業だった。ギター四重奏のレパートリーを開拓してきたことも、得難い素晴らしい想い出だよ。沢山の曲を四重奏用に編曲したり、作曲家を捜し、訪ねて四重奏曲の作曲を依頼したり。

今日では、沢山のギター四重奏団が当たり前のように存在してるけど、当時は殆ど前例がなく、四重奏のレパートリーを開拓することは、まさしく創造だったんだ‥‥。トローバ、ロドリーゴを初めとする偉大な作曲家達が我々の為に曲を書いてくれた。それは大変エキサイティングなことで、ましてや家族でそれに関わることが出来たんだから。

私達はまだ年若き兄弟達だった。本当に若かったよ‥‥。そんな中で体験した数々の出来事は、まさに人生経験でもあったよ。もちろん、喧嘩もしたさ。でもステージに上がると魔法がかかって、どんな問題でも跡形もなく消し去ってくれるのさ!

C:ギターや音楽に関する喧嘩じゃないよ!

R:そう。日常のごく些細な他愛のない喧嘩さ。だって今でもやってるんだから!(笑)今でもステージが、つまらない問題なんて吹っ飛ばしてくれるんだ。



T: 父上セレドニオのギタリストとしての側面を話してください。

R:父は、私が知る中で最もエレガントなギタリストだったよ。時に炎の如く力強く輝かしい音色で、またある時にはクリーンで透明でクリアなサウンドで。
現在の私や兄弟達が持っている美点は、全て各々が父から受け継いだものだよ。まさしく父の一部なんだ。父の美点を鏡写しのようにね。父は輝かしく、且つ名人的で、まさに突出したサウンドを持っていた。全く巨大な存在だよ。

これらのことを父は常に、信じがたいほどのエレガントさとクラシシズムを失わずに行っていたんだ!全く、エレガントなタッチだったよ!


T:ミランの『幻想曲第16番』は、貴方にとって特別な曲ですよね。1993年録音のアルバム「スペインの夜」での演奏内容と、1998年録音の「父が教え給えし歌」でのバージョンは大分違う。また、リサイタルのオープニングに必ず弾きますよね。だから、この『幻想曲第16番』についてのお話をして頂きたいのですけれど。

R:ミランの『幻想曲第16番』は、父にとっても特別な曲だったんだ。父はこの曲がとても好きだった。父は「この曲は音楽の本質へと続く隠された道を持っている。この曲は音楽の全てを内包している」と考えていたんだ。

父の人生の最晩年、毎朝セリンと私は父の家へ行ってこの曲を弾き、議論することで一日を始めていたんだ。その議論はもちろん、音楽的な解釈ばかりでなく、この曲に内包された精神的な部分を考察する事も含まれていた。
 そして、この曲のテンポに関する議論から、私は父から学んだ沢山の教えの中でも、最も重要な部類に入ることを学んだんだ。

93年の私の録音バージョンに関して、その演奏速度が、父は早すぎると考えていた。これは、単純にテンポ設定が速い、遅いという問題ではなくて、より音楽的な解釈の問題だよ。
 その議論中、私達は父のスタジオへ行きミランに関する文献を読み返した。すると父はその本からある言葉を探し当てて私に見せ、そして私に完全に確認させたんだ。この曲に関する私の音楽解釈の誤認をね。

ミランはコンソナンシアスはより遅く、レドブレはより速く演奏するように求めている。だから私は、いかにも幻想曲らしいこの要求に従って演奏していたんだ。しかし、もしコンソナンシアスとレドブレを、主題と変奏のように考えると、ミランのその要求はテンポが揺れすぎて不具合を生じてしまうことになる。すると、問題はミランがこの曲をどちら寄りに考えていたのかが、重要な問題になるわけだ。そこで父は、幻想曲ばかりを集めたもう一冊の曲集には、この16番が含まれていないことを確認させてくれたんだ。愛情深く、賢い方法でね。父のおかげで私はこの曲の解釈を改善することが出来たんだ。−だから、お前が言うとおり「スペインの夜」での演奏と「父が教え給えし歌」での演奏は、大いに違うものとなったのさ。まあ、こんな風にミランの『幻想曲第16番』に関しては、沢山議論し、学んだよ。

ところでお前は、この曲がロドリーゴの大のお気に入りだったことを知っているかい?偉大な人達が価値を見いだす素晴らしい曲なんだ!
父が息を引き取った晩のこと、まさに逝ってしまうほんの数分前、父は私にこう言ったんだ。「お前のコンサートで、もしも私がお前だったら、私はミランの『幻想曲第16番』が弾きたいよ。だから、もし私の助けが必要ならばあの幻想曲を弾きなさい。その演奏が聞こえたら、私の精神はお前の元へ行き、お前と共にいる。もし私達が別々の世界に別れてしまっても。私はお前の心から恐れを拭い去り、もしお前が間違いそうならば、お前の指を取り正しいところへ導いてあげよう」とね。あの日からこの曲は、私にとっては父への呼びかけでもあるんだ。父を送る葬儀で、私はこの曲で父を送った。そして、それから私はこの曲でコンサートを始めることにしている。協奏曲やアンサンブルのためステージでこの曲が弾けないときは、控え室でこの曲を弾き、ステージへと向かうんだ。父の魂と共にね。


T: 今年2001年はロドリーゴ生誕100周年ということで、『アランフェス協奏曲』を筆頭に、ロドリーゴ作品の演奏機会も大変多いですね。


R:
ロドリーゴは私達家族にとって、特別な存在で、とても大切な友人だった。2年前のあの日、妻のカリッサとグラナダで休暇を過ごしていると、「ロドリーゴがたったいま亡くなった」との電話をもらったんだ。翌朝、早々に駆けつけたので、最後のお別れをすることが出来たわけだけど。

 お前が聴いた先日のサグントでのコンサート(※1)は、ロドリーゴ没後2周年の記念コンサートだったよね。ましてや、サグントはロドリーゴの生誕地ということで、まさしく記念碑的な性格の強いコンサートで、私は何か特別な気持ちになっていたんだ。

 あの日、サグントの街にいると、ロドリーゴが生を授かった輝かしい喜びと、既にロドリーゴを失ってしまった悲しみとが、同時に心に去来した。もちろん、生と死は人生の中に共にあるものだけどね。また、ロドリーゴとの想い出も胸に去来した。

 何度となく共に仕事をしたこと、いくつもの協奏曲を彼の前で弾いたこと、彼と彼の作品から沢山学んだこと、友として素晴らしい時を共に過ごしたこと等が、一瞬のうちに心を駆け巡ったんだ。

 あの日私はそんな想いを胸にステージへ上がり『アランフェス協奏曲』を弾いた。もちろん、彼を失ったことは悲しい。しかし、彼が世界に残してくれたもの、それは紛れもなく偉大な美だ。少なくともそれによって世界はより楽しいものになったし、又、彼の魂をその音楽の中に感じられることは、とても嬉しいことだ。私はいつも『アランフェス協奏曲』を弾くたびに思うのだけど、この曲はなんと沢山のことを世界へ、そしてギターへ与えてくれたんだろうね!

 私はロドリーゴという人間が存在したことを賞賛するし、かつ私達が友人同士で互いにその関係を楽しめたことは、本当に幸福だったと思っている。
だから私は常に、彼を失った大きな悲しみと、今言ったとおりの大きな喜びとを心の中に持っているのさ。



T:3月のブルゴス指揮、スペイン国立管弦楽団での大規模なアメリカツアー(※2)を始め、本当に沢山、『アランフェス協奏曲』を演奏なさっていますが、そんな中で『アランフェス協奏曲』に対する考え方が変わったことはありますか?

R:例えばお前がある曲を毎日弾くとするよ。すると、その曲は昨日と違う感じ方や考え方をお前に与えてくれるはずだよ。まるで親しい友人のようにね。曲というものは、単純に奏者と相互作用を生み出す程度のものではなくて、日々、共に成長し変化するものなんだよ。だから、毎日何かの発見があるし進歩しているんだ。

したがって曲というのは、慣れ親しんだ弾き慣れたものであり、かつ毎日変化する、常に新しいものでもあるんだよ。家族や夫婦が日々を共にし、互いに年老いてゆくのと同じなんだ。それは重大な意味を持つことなんだよ。

 私にとって『アランフェス協奏曲』は、紛れもなくそういったものに間違いない。だから、3月のツアーの時も「今日もまた『アランフェス協奏曲』か‥」と思うよりは、毎日が愛しき旧友と共に互いを深く知り合い、かつ高め合う素晴らしいチャンスの連続だったよ。


T:最近はすっかり貴方のメインギターになったリトルペペのギター。今回のヨーロッパツアーにお使いの新作No.24も益々素晴らしいギターですが、そのお気に入りの製作家について話してください。

R:ハッハッハー!良い質問だ!(大笑)私が“リトルペペ”と呼んでいる息子がギター製作家になったことは、例えようもなく嬉しく、かつ誇らしいことだと思っているよ。私達に続く世代の若い人達に、ギターに対し敬意を持ち、愛し、全力で関わるということが受け継がれてゆくのを見るのは、とても幸運だと思うし、本当に嬉しいよ。父と私達兄弟がそうだったように、今度は私達と彼等若き世代と。息子は製作家に、甥っ子達はギタリストになってくれたんだから。

 もう一つ、私にとってラッキーなのは、リトルペペが工房を私達の家、つまり私の両親、セレドニオとアンヘリータが建てた家に作ったことなんだ。毎朝リトルペペが工房へ仕事にやってくると、私は彼の仕事ぶりを見、そしてその楽器に対して私なりの貢献が出来る。−というのは、ギタリストと製作家という関係において、ギタリストが楽器に望む要望や期待を伝えることなんだ。
 私はこの役目が大好きで、昔はミゲル・ロドリゲスの工房を訪れる度、やったものさ。それが、今や我が息子と共に出来るのだから、全く最高の幸せだよ!

T:出来上がったギターがみんな欲しくなりませんか?

R:お前の察するとおり、私の中のギタリストとしての部分はこう言うさ。「こんな素晴らしいギターを他人に渡してなるものか!」ってね(大笑)。

しかし、私の中の父親の部分はこう言うのさ。「世界中のギタリストに、息子の素晴らしい仕事ぶりを見て欲しい!」って。そこで、リトルペペと私はこういう取り決めをした。リトルペペはギターに製作した順に番号をつけているんだけど、全ての10番台のギター、要するに10番、20番、30番・・・といったギターはリトルペペが私にプレゼントしてくれる。そして、その他の各9本のうち、私は1本だけ購入を申し込むことが出来る、という風に。最近はウェイティング・リストがとても増えてしまっているので、本当に売ってもらえるかどうか心配なんだけど(笑)。

 全てのリトルペペのギターは、完成した時点で私が試し弾きするわけで、そこで、あるギターを気に入ってしまったとしても、さっき言った条件以外だったら「このギター、皆に内緒でパパに売っておくれ」って言ったってダメなんだよ(笑)。


T:パパ、今日はとても古い懐かしい話から新しいニュースまで、興味深い楽しいお話ばかりでした。長い時間、どうもありがとうございました。

R:こちらこそ。とても楽しかったよ。